小学生の頃、ディベートの授業を総合学習の一環で行ったという記憶がある。確か六年生の頃だったと思う。議題は「スポーツはやるのが良いか、見るのが良いか」「犬と猫どちらが飼いやすいか」「テレビの字幕(テロップ)は手話よりも親切か」といったようなものだったと記憶している。
ディベートをするとき、先生から
「今自分が直感で賛成だ、と思った方と逆の立場で参加する事で自分の賛成側だけでなく、相手側のこともよく理解できます。もしよければ試してみてね。」
といった主旨のことを言われた記憶がある。
最近ネット(Twitterや国会中継)上で行われる様々な議論を見ていて、ふと小学校の時の事を思い出した。授業の最初の方は互いに相手の意見を聞かず、言いたい事を言いっぱなしだったが、先生が質問時間と返答時間をコントロールし始めてから、小学生なりに冷静な議論ができたと思う。
ディベートをする際は相手の意見を静かに聴き、それに対して論理的に反論することが大切だ。相手の意見に矛盾や論理的に弱い部分が無いかを丹念に調べ、それを質問する。質問への回答がその前の発言と整合性が取れているかを精査し…といったプロセスの繰り返しが重要だ。
もっとも、小学生の時分にこれを意識してできていた、ということはないだろう。
仕事や公的な場(議会やテレビ、言論空間)ではこういったことを真摯に行うべきだ。安倍首相が国会でよく
「レッテル貼りはやめましょうよ」
と発言されていたが、まさにその通りだと思う。短い言葉やインパクトのあるフレーズは耳に残り、イメージを作る。そしてイメージにあった言葉が繰り返されるといつの間にかそれが真実になってしまう。
この手法が得意なのが共産主義者や国家社会主義者たちだった。麻生財務大臣が言うように、 「彼らの手口は学ばなければならない」。
あえて自分とはことなる立場で物事を考えると、いままで見えなかったものが見えるようになる。