元ITインフラ系エンジニアの日記

元ITインフラ系エンジニアがITのことや投資のこと、コンサルのこと等を綴ります。

下人の見合い

ある日の昼下がりの事である。一人の下人が四度目の見合いに行った。下人は前髪のくせ毛を気にしながら、相談所に向かった。相談所の部屋にはまだ相手がおらず、受付嬢というには年をとっている女性に促されるまま席に着いた。マフラーを解き、腕時計に目を落とす。約束時間の10分前、他の部屋に人の居る気配がない。下人は空を見つめ、どうするかを考えながら待つ事にした。
下人はつい先日、交際していた女性から別れを告げられた。相談所のカウンセラーと一度話し、次の見合いを組んだ。写真に写っている女性は下人の好みではなかったが、写真写りの悪い女(ひと)もいる、というカウンセラーの言を信じ、会う事にした。

作者はさっき、下人はどうするかを考えながら待つ事にしたと書いた。しかし相手が来ても格別どうしようという当ては無い。ふだんならもちろん、相手のプロフィール情報から会話の糸口をつかみ、共通点を探るべきはずである。ところが下人にはその気がない。前にも書いたように、写真の女性が好みでなかったからだ。
いっそ断ればよかった。下人はそう思った。しかし、今更引き返す事は出来ない。どうにもならない事をどうにかする為には手段を選んでいる暇は無い。選んでいればこの場には居なかったはずだ。選ばないとすれば—下人の考えは何度も同じ道を低回したあげく、やっとこの局所へ逢着した。
下人はこの「すれば」のかたを付ける為に、当然、その後に来るべき「見合い後にお断りする他無い」ということを積極的に肯定するだけの、勇気が出ずに居たのである。

ドアが叩かれた。下人は立ち上がり、スーツの前ボタンを閉じる。同時に受付嬢と写真の女性が入ってきた。女性の顔は写真通りであった。
簡単に自己紹介し、部屋を出、前に目星をつけていた喫茶店へ行くことを提案する。下人は部屋からエレベーターまでの間、六分の申し訳なさと四分の希望とに動かされて、暫時は顔を上げる事さえできなかった。

喫茶店に着き、席に座ると下人は女の顔をもう一度見た。女も下人の顔を見た。
「休日は何をしているのでしょうか。」
見合いが始まった。

下人は見合い中、かつての女から言われた台詞を思い出していた。
(良い人だけで良い友人としておつきあいして行けるとはおもうけど、結婚はちょっと… …)
(一緒にいる時間はすごく楽しかったけれど、結婚とはちょっと違うかなと… …)

また、カウンセラーから言われた言葉も思い出していた。
(一度会っただけであなたを判断するなんて、そんな女(ひと)は軽率です。)

俺はそんな人間ではない。軽率な人間ではない、と下人は思っていた。また、顔よりも中身が大事だと常々思っていた。

「仕事ではあまり人と関わらないので、その他にも色々と辛くて… …」
下人は女の話に相づちを打ちながら、その心は冷然としていた。もちろん、くせ毛も気にしながら聞いているのである。しかし、女の話を聞いているうちに、下人の心にはある勇気が生じてきた。これはさっき待合室で欠けていた勇気である。

下人は断るか、交際をするかに迷ったばかりではない。そのときこの男の心もちから言えば、交際などは考える事さえできない程、意識の外に追い出されていた。
「今日はありがとうございました」

見合いが終わると下人は相談所へ電話した。
「今回はお断りさせていただきます」
「一度ではわからないこともありますので、もう一度お会いになられてはどうでしょうか?お相手様は交際をご希望ですが… …」
「いえ」

下人は電話を切り、それから頭の中にまとわりつく感情を振り払い、家に着くなり、瞬く間に酒を飲んだ。
「ああ、俺もこれで軽率な人間の仲間入りだ」
そうひとりごち、布団に入った。下人が結婚できるのかは、誰も知らない。

参考:『羅生門芥川龍之介