ITインフラ系エンジニアの日記

ITインフラ系エンジニアがITのことや投資のことなどを綴ります。

下人の読書

1

見合いを終えた翌日、下人は散歩に出かけることにした。
外に出て春の陽気に当たれば。いくらか気が晴れると思ったのだ。しかしその日はあいにく寒の戻り、というにはあまりにも早すぎる冷たい風が吹いた。せっかく開いた梅だか桜だかの花弁が玄関先に散っていた。

(ああ、春はまだ来ていないと思ったが、既に終わっていたのか)

黒のコートに黒のニットキャップ、黒皮の手袋に黒のズボンを履き、下人は外へ出た。
行き先は決めていない。携帯も持たず、ふらりふらりと気の向くまま足の向くままトボトボと歩いた。頭の中はぼんやりとして考えがまとまらない。近くの公園では元気な声で子供たちが走り回っていた。下人は公園のベンチに座り、うつろな目で見るともなく子供たちの方に顔を向けていた。子供たちの足下には脱ぎ捨てられた色とりどりのコートが散らばっていた。

急に自分の姿が惨めに思えた下人は立ち上がり、図書館へ入った。

(こういう時は読書に限る)

下人は芥川全集を図書館から借りた。

2

ここ数日、通勤電車の中で読む事が下人の日課となっていた。全集は500頁ほどあり決して軽くは無い。また、片手で持つには少し重く、かといって両手で持つと電車が揺れたときにバランスを崩してしまう。結局、運良く座る事ができた時だけ読む事にしていた。

ある日の通勤電車内で下人は地獄変を読み、あっという間にその世界に引き込まれた。行きの電車だけでは到底読み終わらなかったので、昼休みも読んだ。それでも読み終わらなかったので帰りの電車でも読む事にした。帰りはあいにく席が空いていなかったが、片手で本を、片手で吊り革をつかみ、夢中になって読み進めた。

読み終えた後、下人の頭には一つの疑問が残った。
それは絵師の娘が焼き殺される前、絵師が弟子をさんざんな目に遭わせつつ写生した件の後の場面である。娘が何者かに乱暴されかけたところを語り手が猿の導きによって助ける、という場面である。

娘に乱暴をはたらいて(はたらこうとして)いた者は一体誰であったのだろうか。

大殿だろうか?それとも父親である絵師だろうか?それとも、この場面は娘の艶かしさを表現する為に用意されただけなのだろうか?

3

下人の頭にはまず、絵師の線が浮かんだ。
弟子に耳木菟(みみずく)をけしかけたり、鎖で縛ったりするくらいの男だ。そして最後は娘が焼け死ぬところをジッと恍惚として見つめる男である。やりかねない。
しかしのどに小骨がささったような違和感が残っていた。前半に娘を「気違いのやうに可愛がっていた」という表現がある。果たしてそこまで可愛がっていた娘に乱暴をはたらくだろうか。大殿の屋敷の中に忍び入ってまでやるだろうか。

次に大殿の線はどうだろうと考えた。
語り手は、大殿は娘に対して下心などなかったと言う。語り手の立場は大殿の20年来の家来であるのだから、きっと主を悪く言う事はないだろう。だからこの下心はあったかもしれない。
また、大殿が「褒美にも望みの物を取らせるぞ。遠慮なく望め。」と言った際、絵師は「何卒私の娘をば御下げくださいまするやうに。」と望んだ。しかし、大殿は「それはならぬ。」と「吐出すやうに」言った。さらに、この件からだんだんと大殿の絵師に対する態度が冷淡になっていったにも関わらず、地獄変の屏風を注文した。
考え過ぎかもしれないがこの時点である程度、大殿の頭の中には「どうにかして絵師を困らせてやろう」という考えがあったのではないか。だから娘の乱暴があった後に絵のあらましが出来上がったとの報告に「なぜか妙に力の無い、張合いのぬけた」返事をしたのだろう。

とはいえ、絵を発注してからあらましの報告の間に娘は乱暴をされている。果たして、大殿に動機があるのだろうか。少なくとも、絵師よりも強い動機があるのだろうか。とするとやはり父親である絵師がやったのだろう、と下人は結論づけた。

幾分、心のすっきりした下人は今日も電車に揺られながら全集に耽るのだった。