元ITインフラ系エンジニアの日記

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「太平記」巻第一

太平記』は以前記事に書いた『名著で読む日本史』で紹介されていた軍記物語である。

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巻第一を読んだ限りでは、「徳治」を重んじている世界観なのだな、と感じた。上下の者それぞれに守るべき「道徳」があり、これを守らなくなったとき世の中が乱れ、人々の生活が困窮するとそこかしこで記されている。

今後、建武の新政南北朝時代、下克上の世界となっていくが、その辺りをどのように描いていくか楽しみだ。

 

【巻第一の要約】

序では上に立つもの(君主)は天の徳を、下に使えるもの(臣民)は地の道をそれぞれわきまえるべきであり、古代中国にあった夏・殷・秦・唐といった王朝の聖人たちの行いを歴史の鑑として学ぶべきであると書かれている。

 

時は鎌倉時代、幕府はすでに源氏から北条氏へと移っており、天皇大覚寺系統と持明院系統で交互に即位するようになっていた。時の御門は後醍醐天皇、幕府を取り仕切るは北条高時であった。

源氏の天下は三代で終わり承久の乱が起こり天下は乱れた。その乱れを北条氏が整え、位を四位に留まり、謙虚な姿勢で政治に臨んだ。

→幕府は「地の道」をわきまえた政治を行っていたのである。

 

幕府は京都に六波羅探題をおき、九州にも同様の機関を設置し日本全国にその影響力を及ぼす事を可能にした。

そのため、やがて地方では地頭や守護といった幕府系の力が古くからの領主(公家系)を上回ることになった。幕府としては朝廷を軽んじる意図はなかったが、結果としてそうなってしまい、朝廷の中には倒幕・調伏を願うものが増えていった。

→この辺りから「天の徳」「地の道」に外れる世の中になり始める。

 

北条時政から九代目の将軍の時、政治が荒れ、民衆の生活は困窮する一方であった。庶民の苦しむ姿に心をいためた後醍醐天皇は朝食を抜き、関所を廃し、米の価格を定め、私財を使って庶民の救済を行った。また、裁判にも立ち会い、公平な裁きを行った。

後醍醐天皇は「天の徳」に則った政治を行ったが、幕府が「地の道」に背く政治を行っている。

 

朝廷は中宮の安産祈祷の名目で高僧に幕府調伏の祈祷をさせていた。その後、資朝、俊基らが中心となって幕府調伏の企てをするも、六波羅探題に露見し失敗した。資朝、俊基の両人はとらえられ、鎌倉へ下着し、牢屋で沙汰を待った。

 

御門は御告文を史上初めて幕府へ下し、それを読んだ幕府の役人が鼻血を出して死んだ。これを受けて、幕府は「世は乱れ末世になって、人の道がすっかり廃れてしまったとは言え、君臣上下の礼が道に外れるときには、やはり仏神の罰もあるのだ」と思い、資朝、俊基の両名の死罪を許し、資朝は佐渡へ島流し、俊基は無罪とされた。